紅茶をめぐる幸せな旅【4】

紅茶専門店『えいこく屋』   店主 荒川博之

「セイロン茶業の父」

ジェームス・テイラーの遺徳を訪ねて③

茶園従業員の子どもたちに案内され、ジェームス・テイラーに関する小さなミュージアムに入りました。 中には“テイラーズ・ティー”を作る時に使った鉄の皿や、食器、ウィスキーの空き瓶など数点が展示されるのみでしたが、私が「ここまで来た甲斐があった」とうれしかったのは、大小数枚のジェームスの肖像画があったことです。 彼はスマートな名前からは想像もつかない、長いひげをたくわえた100kg近い大男だったようです。

32歳、セイロン紅茶生産商業化を開始

ジェームスは木々を切り拓いた土地に住んでいました。ミュージアムの周囲は、すでにジャングルのようになっており、自宅は石が積まれた跡以外何も残ってはいません。120年ほど前の話ですから無理もないことです。 16歳でスコットランドからやって来たジェームス。彼は57歳で亡くなるまで、ここで生活を続けました。 ベラデニヤ植物園で集めた種を育て、ル・レコンデラでプランテーション(大規模農場生産)を始めたのが32歳(1867年)。1872年には7700㎡の茶園にファクトリーを構え、75年にはセイロン紅茶が初めて、ロンドンのティー・オークションにかけられます。

当初イギリスへの輸出はわずか23ポンド(約10kg)の茶箱2つだったセイロン紅茶。しかし1890年には、22,900tの生産量を誇るまでになりました。

ジェームスが眠る墓地へ

 ル・レコンデラを後にして、ジェームス・テイラーの眠る墓地を訪ねるためにキャンディへと戻ります。 1892年、重い胃腸炎になったジェームスは赤痢にかかり、ル・レコンデラの自宅でひっそりと亡くなりました。 キャンディの共同墓地の墓の前で、私とダルマさんは静かに手を合わせました。

「1892/5/2 57歳死去。この島のティー事業やキナの木栽培のパイオニア、セイロンティーのル・レコンデラ茶園のJamesTaylarの信心深い記念」 立派な墓石に刻まれた文章を、ダルマさんが訳してくれ、そして再び、私たちは合掌しました。 ジェームスは生涯独身でした。スリランカの人々は「彼は紅茶と結婚した」と話し、偉大なる紅茶の父として慕っています。

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